青崩峠は「塩の道」最大の難所だった・・・

 

 北遠の地「水窪町」は、遠江にありながらも信州文化の色彩が色濃く残っている町である。 

 遠州側から水窪谷に入る道は秋葉山や明光寺峠の山々が重なるように控え、その間に渓流や沢が壁となっていた。 しかし、信州からは青崩峠を越えなければならなかったが標高差が低かったため、地形的な面から水窪には信州から入ってきた文化が浸透した。

 

 青崩峠は遠江と信濃の国境にある険しい峠で標高1082メートル。この峠を境にして遠州側では信州道と呼び、北側の信州では秋葉街道と呼んだ。縄文の昔から遠州と信州を結んでいる「塩の道」は、青崩峠を境にして街道の呼びを別にしていたのである。 

 青崩峠はその名の通り、青というよりは鉛色に近い素肌をむき出しにした大ガレ(崩壊壁)で、風化した岩がボロボロと崩れ落ちる。この大ガレはメディアライン(中央構造線)の表日本と裏日本を分ける大地の大規模なひび割れ断層によるものであると解明されているが、山肌をえぐり取られたように青い層を露出している光景には得体の知れない恐怖感を抱いた事であろう。 

 信州の飯田から遠州の相良までのこの街道の中で、もっとも厳しかった自然がこの青崩峠であった。

 

 辰之戸から峠までは直線距離にすれば2キロほどだが、実質的には4キロはある。標高1653メートルの熊伏山からの山並みがうねるように連なる。この道を時代の流れの中で多くの人たちが通った。神武天皇が東征のとき、元湯彦命に命じて三河を平定させたが、このとき命は三河から信濃に攻め入り「アオタケミツ」という豪族を滅ぼしたという神話がある。その場所が「信濃地名記」によると青崩ではなかったかと記されている。

  

 この青崩峠は古代人の「塩の道・暮らしの道」として始まり、南北朝時代、後醍醐天皇の皇子宗良親王が歩いた道であり、戦国の時代、甲斐の武将武田信玄が風林火山の旗をひるがえして、高天神城攻撃や、三方ケ原の戦いに向かった道であった。また、折口信夫、文人小島鳥水や村松梢風もこの道を通ったことが作品の中に見える。

 

 余談になるが、甲斐の武田信玄が青崩峠を越えて遠州に侵入したのは元亀3(1572)年のことであった。山県昌景の別働隊、兵力約五千が出発したのは9月29日、信玄が甲・信の精鋭と北条氏からの援兵凡そ二万五千を率いて甲府を出発したのは10月3日であった。信玄は道を北西にとって八ヶ岳山麓から信濃の諏訪郡に入り、伊那郡を南下して秋葉街道を進み、10日には青崩峠を越えて遠江北部に入った。 

 山県昌景の率いる別働隊は、下伊那郡から東三河へ入り、伊那高遠城の秋山信友は東美濃に侵入した。 

 ここで信玄は軍勢を三方に分けながら距離も近く、道も平坦な駿河路をとらなかったのか・。

 

 今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、天下覇権を目指すのは甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、尾張の織田信長であった。

 信玄は駿河の今川領を支配下に収め、北条氏とは同盟を結び、信長と対戦中の浅井長政、朝倉義景には出兵を報せ、越中の一向一揆の頭目である勝興寺には、今まで、遠江、三河の作戦や病気のため応援には行かれなかったが、病気も本復したので信玄、勝頼父子がいつでも後詰に出馬できるようになったから加賀の一揆が重ねて出張して越中を静謐(せいひつ・世の中がおだやかに治まること)にするよう肝いりをされたいと伝えている。

 信玄は越後が雪に埋もれ、上杉氏の動きが止まる晩秋から冬にかけて出陣を決定したのである。 

 信玄が駿河路をとれば掛川城や高天神城などの徳川氏の有力な拠点を正面にし、これを攻略して進むことになれば味方の犠牲も大きいし、時間の無駄である。今回の行動は、浅井、朝倉や北陸の一揆勢などとの共同歩調が重要で、単独行動は許されなかった。

 

 こうしたいきさつから、信玄は南に向かうか、北に向かうかという意図を隠しておきたかった。これが信濃路を選んだ最大の理由であった。

  そして、信玄がこの信濃路をとったもう一つの理由は、遠江北部に勢力圏を持った天野景貫の居城犬居城があったからである。 

 青崩峠を越えた信玄の本隊は、天野景貫の案内によって水窪から秋葉路を南下して犬居城に入ったのである。 

 そして、武田軍は兵力を二分し、勝頼を将とした支援は只来城(旧天竜市)を攻めた後、北遠の要衝である二俣城(旧天竜市)攻略に向かった。信玄は自ら本隊を率いて信州街道を南下し、天方城、一宮城、飯田城(周智郡森町)を落とし、久能城を攻めた。久能城は攻守したが各輪城(掛川市)や向笠城(磐田市)の徳川勢は敗北、武田軍は袋井の木原、西島に本陣を置いた。 

 武田勢、袋井付近に着陣したという報せに德川方は大久保忠世、内藤信成、本多忠勝らと三千の兵を派遣して見付(磐田市)に布陣し、敵状視察を信成に命じたが、武田勢の哨戒網にかかり、天下無敵と呼ばれた武田の騎馬隊に猛烈な攻撃を受けた。世にいう「久原畷の戦い」である。

 

「甲陽軍艦」に、「久野の城、御見回の時、家康衆随分の侍大将、三かの川をきり、四千余の、人数にて打出る。信玄公、あれをのがさざる様に、討ちとれと、被仰付。家康衆引あぐる也。甲州武田勢くいとむるなり」とある。 

 武田軍は徳川軍を目掛けて一斉に打ちかかった。武田勢の追撃は激しく、家康は本多忠勝を殿軍として、見付の町に火を放って退却した。この戦いが「一言坂の戦い」である。 

 その後、武田軍は久能城攻撃を中止して見付から北上し、合代島(旧豊岡村)へ終結、二俣城の攻略に向かった。家康も約八千の軍勢で二俣城の救援に向かったが武田勢の防戦に天竜川を越せずに引き返し、12月中旬、城は武田に明け渡された。 

 その後、武田軍は天竜川を渡って浜北(旧浜北市)に入り、三方原に布陣したのは22日の昼であった。 

 德川、武田の主力が激突した時刻は「浜松御在城記」では「既及申刻、合戦初ル」とあるから午後4時頃であろうが、「甲陽軍艦」には、午後3時とある。 

 武田軍は魚鱗の陣、徳川勢は鶴翼の陣で、武田軍の後尾に襲いかかったのである。この戦いの結果は武田軍の圧勝で徳川家康は浜松城にかろうじて逃げかえったとされる。

 12月24日、武田軍は三方原から陣を払って西へ動き、刑部で越年したのである。

 武田信玄が死亡したのはその年の4月12日であったという。享年55歳。その死は以後2年間、秘密とされた。

 

青崩峠は、縄文の時代から生きるための往還であり、宗良親王の大鹿征東への道であり、戦国の時代には信玄が遠州攻略の野望を持って越えた峠であった。

 

塩の道」最大の難所だった「青崩峠」

 静岡県の県境は、富士山から富士宮市根腹に出、富士川の東側を南下して芝川地先で富士川を越え、そこから北上して安倍峠を抜けて南アルプス白根山で甲信越三国の境界をつくり、塩見岳、小河内岳、聖岳、光岳、白倉山、朝日山、ヒョー越峠などの南アルプスの峯から水窪町地内の「青崩峠」に至る。

青崩峠は標高1082メートル、「光満ちる遠江」と、「みすずかる信濃国」を分ける眺望絶景の峠で、遠州と信州を結ぶ重要な道であった。その道は、反面「塩の道」信州街道最大の難所でもあった。

 飯田線「水窪駅」から、水窪川を渡って水窪の町に入る。青崩峠への道は駅から1500メートルほど西へ向かった小畑の三叉路から北に進むと、やがて町並みは絶えて右側に水窪オートキャンプ場「マロニエの里」がある。

「塩の道」は、重要無形民俗文化財「西浦の田楽」で知られる「西浦」から、「池島」、「辰之堂(タツンド)」、青崩峠へと続く。かっては池島から峠までは徒歩で1時間ほどの間は旧道が残っていた。

 水窪から飯田への街道は、遠州南部地方から水窪への道が整備されたり、昭和11年に三信鉄道が開通するまでは、長い間人馬の往来、物資の交流、縁組まで、遠州と信州を結ぶ大動脈であった。

 「西浦田楽」は、伝承によれば天平10(739)年頃からといわれ、祭りを執行する20数名の「能衆」はそれぞれの役を代々世襲で受け継ぎ、定められた期間を家族と別居し、魚や肉、女色を避け、厳しい戒律を今でもかたくなに守っている。

 平安時代に起こったといわれる田楽能の様式を伝える「地能三十三番」や、南北朝時代を起源とする「猿楽能」の形式を持つ「はね能十三番」と、その他あわせて「四十七」からなり、旧正月18日、夜を徹して催される。

この祭りは若い男女の交際の場として、木の根を枕にして一夜を過ごすことが容認され「木の根祭り」と呼ばれ、この地方の奇祭としても有名であった。

水窪は、信州、遠州、三河の国境で、全国でも屈指の民族芸能の宝庫であり、「祭りの古里」なのである。

 こうした祭りが花開き育ったのは、湯立の神事を始め、五穀豊穣、家内安全を神に祈り加護を願い、悪霊追放、豊かな暮らしを神に祈った庶民の素朴な願いからであった。

 「遠淡海地志」によると、西浦や池島では「とうもろこし」を多く作り日常食とし、一軒で六俵もの収穫があったという。

青崩峠までの道程には「おとも淵」と呼ばれる淵があり、足神神社の手前に鯖(さば)を抱いた「鯖地蔵」と呼ばれる地蔵がある。昔、この辺りの道を、塩鯖が運ばれた名残りであろう。

鯖地蔵を少し上ったところに昔、守屋家の先祖が北条時頼の足痛を治したと伝承される「足神神社」、足神神社のすぐ傍らの岩の上に小さな祠があり、遠州と信州を結ぶ壮大な伝説「悉平太郎」の小さな犬の石像が祀られている。以前は、大きな岩の上にポツンと置かれていたが、現在は祠の中に祀られている。いつ誰が刻んで祀ったのかは誰も知らないという。

 悉平太郎は、磐田市見付の矢奈比売天神社と信州駒ケ根市の光前寺に伝えられている伝説で、その昔、遠州見付の天神様では毎年8月10日の夜、白木の柩(ひつぎ)に娘を入れ、人身御供として供えなければならないという悲しい因習があった。

 ある年のこと、旅の六部が天神社の床下で一夜の宿をとった。その夜は人身御供の夜であった。夜も更け、辺りは真の闇に包まれた。すると、どこからもなく怪物が現れて、「信州信濃の悉平太郎(早太郎他、二、三の呼び名がある)に知らせるな。」と三度ほど呟くといけにえの娘を小脇に抱え、闇の中に姿を消した。これを聞いた六部は見付の宿場の人たちを人身御供の苦渋から救おうと、信州に悉平太郎を探して旅に出た。

 六部は光前寺に飼われていた悉平太郎という強い犬を借りてきて、祭礼の夜、娘の代わりに柩に入れて人身御供として供えた。悉平太郎は深手を負いながらも見事に怪物を退治し光前寺へ帰る途中、哀れにもこの地で息絶えたという話である。

池島から進んだ「辰之戸」は、遠州最北端の集落として旅人や馬方、駄賃背負(だちんしょい)の休み場として賑わい、昔は中屋ほか二、三軒の道者相手の百姓宿もあった。

 大正9(1920)年には12世帯、70人が住んでいたというが、昭和41(1966)年に廃村となった。ここには「木地屋の墓」がある。

 墓は高さ47センチ、菊花の紋の下に、「秋山明桂信士」嘉永七寅年十月十八日とある。

 地双区の根には、明治10(1877)年頃にはまだ木地屋が住んでいたと伝えられている。

 木地屋というのは、山の木を切ってロクロで椀や杓子、しゃもじ、壺、盆、曲物、そばやうどんを練る木鉢を作る人のことで、木地師とかロクロ師ともいった。

 「遠江国風土記伝」の著者内山真竜は、「西浦、木工住す大阪御陣の時飯器を造る」と記しているから、大阪冬の陣(慶長19年=1614)、大阪夏の陣(元和元年=1615)であるから、ずいぶん古い時代から住んでいたことがわかる。

 木地屋は、特殊な権威を持った職業集団で、全国各地の山間の地域には彼らの生活を物語る墓や、小屋跡、氏子駈帳(狩帳)、通行手形、免許状、由来書、物語りなどが残されている。明治5年頃には全国に五万人の木地屋がいた。その名残としてコケシ造りに従事している人もいるという。

 青崩峠の正式な呼び名は、「遠淡海名勝拾遺」によると、「龍ノ戸峠」が正式で、青崩は俗称だという。

「水窪町沿革誌」に、「呼称ノ由縁は、信州ニ面スル一帯青色粘質の岩石崩壊シ絶壁トナリ、裳ヲ引イテ数町ニ及ブ、所々突出セル奇岩ニ矮生(わいしょう)ノ樹木黙々タルアルノミ、真ニ其名ニ反カス」とあり、青崩の呼称が一般化していたようである。

 この峠を境いにして南側の遠州側では「信州街道」と呼び、北側の信州では「秋葉街道」という。「塩の道」は、青崩峠の南と北で街道の名称を異にしているのである。

 遠州相良から信州飯田への「塩の道」の中で、青崩が最も厳しい自然の中にあった。青くもろい山肌は昼夜を問わず崩れ続け、一日前に通った人の足跡さえも消したという。

 天保4(1833)年から明治3(1870)年の37年間の「梁木番所記録」によると、白木、胡桃(くるみ)、酒樽、木地曲物など約八千四百駄がこの峠を越えているという。

 この青崩峠は、塩を運ぶ暮らしの道として始まり、宗良親王の大鹿征東府への道、戦国時代には甲斐の武田信玄が「風林火山」の旗をなびかせて、二万五千の将兵とともに遠州攻略を目指して越えて行った峠であった。峠道は狭く難所であったから、他の一隊は兵越峠を越した。

 青崩峠の頂上近くには信玄の腰掛岩があり、兵越峠の頂上には将兵の炊飯に使った信玄の大釜が保存されている。

 昔から青崩峠は、行政が定めた県境を越えて人々は結ばれていた。暮れになれば、水窪の方からサンマが来た。サンマを箱で買って、大家族が夕餉を囲んだ。

水窪から塩、海産物、蚕の繭が、南信濃村方面からは米や酒が運ばれた。多くの縁談も持ち込まれた。

 明治から大正にかけて、「生糸から軍艦を」と戦時色が高まり、生糸が輸出のドル箱的存在となった時代、水窪の少女たちは峠を越えて飯田の製糸工場に働きに出た。

 峠で、少女たちは家の方に向かって、

「行ってくるでねっ・・・・。遠州、信州、ひとまたぎ・・・・。」

って、一家の家計を助けるために糸取りに出た。

 冬の青崩は吹雪が遠州側に吹き抜ける。峠を越えたのはいつも師走だった。

 「雪はがんこたまったけど、糸を取れば銭がもらえた・・・・。」

 細井和喜蔵の著「女工哀史」にあるように、悲惨な末路を異郷の地で終えた女たちもいた。

 水窪からは糸取りの女工たちが大勢、青崩を越えて行ったが、信州からは秋葉詣りの衆や、茶摘みの時期になると上村や南信濃村から数百人の茶摘み娘が峠を越えて、龍山村などに茶摘みにやって来た。

 信濃へのお茶は、昔は遠州から持ち込まれていた。その道は遠州からの直接の道と、三河を通って入る二つの道があった。

魚を抱いた地蔵さま

 

 遠州と信州を結ぶ国境いの青崩峠の手前に、現在は過疎のために家も無くなってしまった辰乃戸という村があった。この村を流れる川は、水窪川の上流で翁川という川である。 

 翁川は大雨に見舞われると、大量の水が川に溢れて、至るところに深い淵が出来て、その淵は普段でも神秘的な様相を呈して、何物かが淵の中に棲息しているような錯覚を覚えさせる。 

 その淵の一つに「おとも淵」と呼ばれる淵がある。

 

 昔から、この淵ではやまめがとてもよく釣れた。この淵を覗いて見ると、1メートルもあるような、大きな二匹のやまめを見ることもあった。

 村人たちは、「あれは、夫婦魚だよ。釣って見たいものだが、可哀想にも思えるな。ほれ、仲よく泳いでいるよ。」と話し合ったものでした。

 

 いつの時代ことだろうか・・・・。この村にも茂助という男が住んでいた。茂助も釣りが好きで、暇さえあればおとも淵にやって来て、釣り糸を垂れていた。

 ある日のこと、茂助の竿がくんとしなり、釣り上げて見ると、茂助の背丈ほどもある大きなやまめが釣れた。茂助は一人では運べないので、村の人たちを頼んで運ぼうとした。

  茂助は得意満面だった。しかし、村の人たちは、「茂助さん、淵に放して上げなよ。こりゃ淵の主の夫婦魚だよ。」とさとしたが茂助は聞き入れようとはしなかった。 

 その時だった・・・・。

  「おともよぅ、待て・・・・。」という声が聞こえて来た。

  「やっぱり夫婦魚だよ。」

  茂助は気味悪く思ったが、家に持ち帰って食べようとした。しかし、身は硬くて、酸っぱくて食べられるような魚ではなかった。

  茂助は魚を谷底に捨ててしまった。その日を境にして、茂助の家には不幸な出来事が続いた。子供が二人とも急病で死んだり、茂助もまだ四十だというのに、その若さで突然、原因不明の病にかかり死んでしまった。

 

 「ありゃ、夫婦魚の祟りだ。これ以上、村に災難がかかっちゃ大変なことだ。」と、村人たちは相談して、魚を抱いている石のお地蔵様を作って、おとも淵のほとりに建てて、懇ろに供養をした。

  それ以来、この村には何事も起こらなくなったが、村人はいつとはなしに、この淵を「おとも淵」と呼ぶようになった。

 

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